日々坦々

日々の出来事をボヤキつつ、日本が直面している諸問題の根源を追求する




「市民派選拳の神様(AERA)」「無党派選挙の神様(エコノミスト)」と書かれた斎藤まさし氏の過去記事

Category: 山本太郎   Tags: 斎藤まさし  山本太郎  三宅洋平  市民ボランティア選挙  
いつもの雑誌記事の紹介ではあるが、本日、紹介するのは2003年の「AERA」10月27日号である。

aera4922.jpg(AERA 2003年10月27日号)

<タイトル>
≪市民派選拳の神様 市民の党代表 斎藤まさし≫
<リード>
≪大政党の大型スピーカーには、拡声器を並べて応戦。「不特定多数への文書配布」が選挙違反なら、支持者にハガキを書かせてその輪を広げた。斎藤の手にかかれば、選挙は法定制限額の半分でできる。妻子を「遺棄」し、老いてなお働く母を横目に「選挙」に奔走してきた男の50年。≫

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先日、本人にインタビューして、益々興味が沸いてきたので、またまた本日も斎藤まさし氏を取り上げたい。
彼の選挙手法は決して新しいものではないと思うが、今でも、そして今後にも十分通用するものだ。本来は「日々坦々資料ブログ」で取り上げるべきだが、山本太郎と三宅洋平の選挙参謀を務めた斉藤まさし氏のインタビュー後、多くの新しい読者がここメインの本ブログに来てくれているので、ここで紹介しておこうと思う。

また、「週刊エコノミスト」の記事も同時期、10年前の2003年2月に出ていて併せて読むと、より理解が深まるので、長くはなるが一緒に紹介したい。

古いとはいえ、参院選における山本太郎氏の選挙戦は、ネット選挙もさることながら、斎藤氏の従来からのやり方に依拠していて、その戦略、戦術によって当選したのだろうと思える。記事を読むにつけ、もし、斎藤氏が絡んでなかったなら厳しかったのかもしれないとも思えてくる。斎藤氏に山本太郎が獲得した66万票について聞いたとき、100万以上とりたかったので三分の二で不本意だった、というようなことを言っていたのが印象深い。

10年前の記事だが、先日、紹介した「カンパとボランティアによる21世紀型市民選挙のススメ」も2002年の内容だったが、今でも学べるものが非常に多いのと同じく、この二つの記事も大変参考になると思う。


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 「軍国おじさん」に果敢に挑戦した「平和ボケおばさん」こと樋口恵子が名調子で30分しゃべり続けた。
 「こっちは17日間で81万票、あっちは4年間と17日間で308万票。日割りにすれば、こっちの得票率のほうがずっっと高いじゃない」
 9月5日夜、東京都中央区の労働スクエア東京。「女の選挙入門講座」と題した集会に、4月の東京都知事選で樋口をボランティアとして支えた80人ほどの女性が参加した。会場は笑いと拍手に包まれ、「懲りてないわね」と喜ぶ声が聞かれた。最後に特別ゲストとして登場したのが斎藤まさしだった。
 この20年間に、優に千を超える国政・地方選挙にボランティアとして関わり、7年前に地方議員中心の政党「市民の党」を結成した。政治意識が高い無党派層の増大を背景に、1999年1月の広島市長選で秋葉忠利こ兀衆議院議員を当選させてから負けなしの連勝街道を突っ走り、「市民派選挙の神様」と呼ばれる。
 斎藤が注目されだしたのは、01年3月の千葉県知事選からだ。前年10月に長野県で田中康夫知事、H一月に栃木県で福田昭夫知事が誕生し、無党派知事ブームが起きた。千葉県でも、市民運動をしている女性らに口説かれた参議院議員の堂本暁子が立候補。堂本は当初、泡沫候補のように見られていたが、自民や民主などが推薦する政党候補と接戦を演じた末に当選した。
 斎藤はこの選挙で、堂本に街頭での演説を禁じるという奇手を使った。元テレビ記者の堂本に、聴衆相手の街頭インタビューをさせたのである。学生ボランティアが路上ライブを繰り広げる合間、堂本は集まった人にマイクを突き出し、県政に対する不満や課題をしゃべらせた。これが的中し、集まってくる支持者は日を追うごとに増えていった。
 マスメディアは「無党派市民候補の勝利」と書き立て、後に小泉政権誕生の引き金になったとも評された。知事になった堂本は、東京湾の干潟・三番瀬の埋め立て計画を白紙撤回し、市民が政治を変えられることを実感させた。
 今春の都知事選では樋口擁立に関わり、告示後は、統一地方選で日程が重なった神奈川県知事選で田嶋陽子・前参議院議員を応援。冒頭の集会の5日前に行われた埼玉県知事選では、女性団体が中心になって担ぎ出した坂東真理子・元内閣府男女共同参画局長を支援した。この3都県知事選では時間不足のために十分な選挙態勢をつくれず大差で負けたが、千葉県知事選以降、とくに女性候補からの応援依頼が引きも切らない。
 集会で斎藤は次のように会場の女性たちを励ました。
 「お金をかけずにボランティアが中心になって短期間で選挙をやった。結果は1勝3敗。
 でも、知事選という大きな選挙をボランティアでやれるなんて、3年前の20世紀には考えられなかった。団体や政党に頼らなくても、一人ひとりがお金と時間と体力を持ち寄って戦えるようになっている。もう勝てますよ。もう少し時間をかけ、もう少し経験を積んだら」

40日間泊まりこんでも経費さえ受けとらない資金源「疑惑」も渦巻く

 どれほど選挙で応援しても、斎藤は交通費などの経費すら受け取らない。当選させたい候補者がいると、市民の党のメンバーと現地に入り、地元ボランティアに届け出書類の作成、選挙ハガキの使い方、電話のかけ方などを教える。長いときには何十日間も泊まり込んで一緒に選挙を戦う。
 そんな彼らを、黒澤明監督の映画「七人の侍」にたとえる人もいるが、逆に、怪しげな集団と思われることもしばしばだ。党員を勧誘するのではないか、法外な額を請求するのではないか、支援者の名簿を持ち帰るのではないか――。
 そもそも市民の党には綱領も党員の規定もない。名簿はその候補者にしか意味がないので、いつも選挙後に渡している。お金についても斎藤は「もし、請求されたという人がいるなら、名乗り出てほしい」と一笑に付す。
 坂東事務所の事務局長を務めた山尾聖子も当初、一抹の不安を感じていたが、自ら事務所に40日間泊まり込み、斎藤たちと寝食を共にして納得した。徹夜で作業していたときのことだ。「どうして、ここまでやってくれるの?」と市民の党のスタッフに聞くと、「こういう選挙のやり方が広まれば、日本が変わると思うから」という答えが返ってきた。さらに「給料もらってたら、8時には帰るよ」とも。「これが、ボランティアの力のすごさなんだと思いました」
 埼玉県知事選では、マンパワーは無償のボランティア、資金は少額のカンパでまかなうという理想的なボランティア選挙ができた。車や拡声器、印刷機などの器材は市民の党が無償提供し、公費で出る運転手の人件費45万円までカンパしてくれた。選挙費用は法定制限額(6050万円)の半分でおさまった。
 ボランティア選挙だからといって、市民派選挙にありかちな「みんな頑張ったけど、落選して残念だったね」では済まさない。斎藤は、あくまで勝つことにこだわる。「選挙は戦争。勝たなければ意味がない」が口癖だ。
 選挙戦の基本は、「無党派の組織戦」と呼ぶ公選ハガキ戦術だ。数枚のハガキをセットにして支援者に配り、戻ってきたハガキの宛名の人に電話をしてさらにハガキセットを引き受けてもらう。ねずみ算だ。千葉県知事選では、県内の知人を紹介するハガキが全国から届き、その数は13万人以上になった。堂本の得票数の4分の1以上である。だがこの戦術、不特定多数への文書配布を禁じる公職選挙法違反スレスレなのだ。
 従来からの選挙手法に慣れた組織や団体との間に軋轢が生じることもある。02年4月の参議院新潟選挙区補選のときがそうだった。黒岩宇洋を民主、自由、社民の3党、連合新潟、市民ボランティアで担いだが、「5本の柱」と称した陣営内で斎藤と連合新潟が選挙公示日に衝突した。連合が組んだスケジュールどおりに斎藤が車を走らせなかったからだ。
 動員をかけている組織選挙は候補者が予定通り移動することが至上命題だが、斎藤の場合は臨機応変、人がたくさん集まるところに長くいる。それ以前から選挙ハガキ戦術などに苦言を呈していた連合サイドの怒りがついに爆発した。
 選挙事務所事務局長の江花和郎・連合新潟事務局長が、選挙カーの車長に携帯電話で「斎藤を車から降ろせ。降りないなら、東京へ帰せ」と怒鳴った。ボランティアが詰める事務所に緊張が走った。深夜、斎藤は遊説先の宿舎から新潟市の事務所へ戻り、各党代表も集めての緊急幹部会となった。
 斎藤は、連合や各党を追い出してでもボランティア選挙をやるつもりでいた。
 「なにが悪いんだ。勝つ気がないから、そういうこと言うんだろ。あんたらのやり方をして負けたら、誰が責任とるんだ」。珍しく語気も荒くなった。一晩中やり合い、そして翌朝、江花が謝った。

 両者の調整役となった、候補者の母で元参議院議員の秩子が語る。
 「斎藤さんは『勝つ』ことを最優先にしていた。そのためにあらゆる手段を講じようとしていた。ところが、組織の方の考えは、きちんとしたスケジュールがあって、その通りにする。そこが大きな違いでした」
 このときは選挙に勝つことを優先して矛を収めた江花だったが、斎藤たちのやり方を認めたわけではない。「彼らは無党派の市民ボランティアじゃない。組織です。彼らの街宣車の装備は相当なもの。プロ集団ですよ」と指摘する。
 プロが専門家を指すならば、斎藤はまさしくプロ中のプロだ。たとえば市民の党の地方議員は、同じメーカーで同型の大型拡声器を買っている。それを数個持ち寄って周波数を合わせれば、政党の大音量スピーカーにも負けないからだ。「スタッフは地域で市民運動をしたり、議員だったり。選挙についても深い知識と実行力をもっている」。
99年に続いて03年にも斎藤らの応援を仰いだ広島市長の秋葉は、彼らの専問家ぶりを高く評価している。
 斎藤を悩ます最大の「疑惑」は資金源だ。
誰もが「斎藤さんって、何で食べてるんだろう」と小声で囁き合う。「中国共産党」や「CIA」、はたまた「ポル・ポト派」と噂は面白おかしく広まるが、実態は市民の党の地方議員らによる個人献金だ。総務省に届け出ている政治資金収支報告書によると、2000年は100万~130万円の個人献金を17人がしており、これだけで1976万円の収入の99%を占めている。斎藤自身は、滞りがちではあるが市民の党から給与をもらっているそうだ。
 もっとも、斎藤は親族や友人から借りた金をつぎ込んでいるから、タコが自分の足を食っているようなものだ。都議選で候補者が全員落選し、3000万円の借金を抱え込んだときには、半年間寝込んだ。台所は火の車なのに、高揚技をくわえているのである。
 ずうっとこんな生活ぶりだから、妻からも愛想を尽かされた。妻は斎藤と同じ上智大学の卒業だ。市民運動家になっていた斎藤と再会し、狭山事件の集会で公務執行妨害の「濡れ衣を着せられて」逮捕された後、結婚した。子ども3人の5人家族は2Kの公団で暮らしていたが、6年前に離婚調停を申し立てられた。家庭裁判所で見せられた書面には「20年間、妻子を遺棄した」とあった。逆算してみると、20年は結婚生活の全期間だった。
 「遺棄の2文字はショックでした。でも、僕に非があるのは間違いない」
 保母をしていた妻は給料もボーナスもまるごと出し、当時は斎藤が使うお金もそこからもらっていた。育児、家事もした。
 「周りからはよく、お前の女房は神様みたいな人だと言われました」
 たくさんの市民派政治家を生みだしてきた斎藤だが、「選挙の神様」と言われることを嫌う。負けることもあるというだけでなく、自分は神どころか、神のような人たちに支えられてきたという思いがあるのかもしれない。
 斎藤は自分の母親を、照れも衒(てら)いもなく「神様みたいな人」と言う。

一切の行動を制約されない政治家を日本中に増やしたい そのためにはボランティアだ

 斎藤が生まれたのは、島根県大田市にある大浦という小さな漁師町だ。2歳下に弟がいる。家業は万屋だ。93歳の父は数年前から交通事故や病気で床に臥せることが多くなったが、80歳になる母・夕ツがいまも店を切り盛りしている。歯はとっくに抜け、腰は深く曲がって、歩くときは背中と地面が平行になる。店では日用雑貨から食料品、衣類まで扱っているが、商品が並んでいるのは入り囗付近だけだ。かつては漁師もたくさんいて、夜中まで来る客のために寝る間もなかったが、いまは町じたいがすっかりさびれてしまった。
 それでも店を畳まないのは、斎藤に負担をかけたくないからだ。
 「主人と私か自立していたら、あの子は自由にやれるでしょ。子どもには子どもの人生がありますから。私はね、お客さんがお店に来たら、そこに倒れて死んでいたという死に方をしたいの」
 悲愴感を漂わせるでもなく、楽しそうに笑い声を上げながらタツはそう語る。
 タツは11人きょうだいの3番目。父親は実業家だったが、株で失敗して破産し、母親も乳飲み子を残して亡くなった。27歳で嫁いでからも、体が不自由な一番下の弟の面倒を見続けた。店を一日も休まず、家で食べるのは売れ残ったもの。風呂は段ボールを燃やして焚いた。もちろん旅行になんか行ったことはない。
 日本の統治下にあった朝鮮で漁場を差配し、敗戦で引き揚げてきた父親には反感をもっていたが、「お袋のことはすごぐ尊敬してました。子供心に、悲惨だなあ、嫌だな、と思いながらも、やっぱり影響は受けましたよ。のちに学生運動、市民運動を始めたのも、その影響が強かった。滅私奉公が人間の価値だと思っていたんです」と斎藤は素直に認める。
 その学生運動というのは、上智大学外国語学部ロシア語学科の2年生のときに行った学費値上げ反対のデモとストライキである。学生会長だった斎藤はこのストが原因で除籍処分となり、その後、アルバイトをしながら、ベトナム反戦運動、狭山裁判闘争、カンボジア難民救済、北方領土返還などの市民運動に関わった。
 そのころの斎藤は「議会制民主主義はナンセンス。政治家は軽蔑すべき人種)と考え、選挙を棄権し続けた。
 転機は79年に訪れた。衆議院議員だった故・宇都宮徳馬との出会いだ。
ロッキード疑惑と金大中拉致事件への対応に抗議して、自民党を離党、さらに議員辞職した硬骨漢のリベラル政治家である。戦時中から企業経営者として軍部と官僚を批判し続けた思想的な一貫性や、当選10回ながら大臣の椅子に見向きもせず、政治家として筋を曲げない姿が「これこそ政治家」と斎藤の頭のなかに刷り込まれた。
 斎藤がボランティア選挙にこだわるのも、「僕は宇都宮先生の最後の弟子。彼のような政治家を育てたい」という思いがあるからだ。
 政党や労働組合、業界・宗教団体の力を借りて当選したのでは、政治家としての行動が制約される。次の選挙が目の前にちらつき、支持組織の反対を押し切ってまで政治信条を貫き通すことなどできない。宇都宮は株で儲けて製薬会社を起こし、築いた資産を政治に注ぐことができた。では、金のない者がしがらみから自由な政治家となるためには、どうすればいいのか。その答えが、ボランティアとカンパでやる選挙だった。
 選挙で負けたときのしんどさは時間が経ってから出てくるし、勝ったときの喜びは長く続かない。勝てば手柄争い、負ければ責任のなすり合い――そんな人間の性も見てきた。経費さえ受け取らないのは、斎藤自身がしがらみのない状態で応援する候補者を選ぶためでもある。
 79年の総選挙で落選した宇都宮を、斎藤らが直談判して80年の参議院東京選挙区に担ぎ出し、当選させた。83年には宇都宮を代表に迎えてMPD・平和と民主運動を結成。多くの学生や若者が集まったが、この年初めて参議院に導入された比例区で惨敗した。

ストイックすぎる姿に誰も物言えぬ存在に スキーで開眼し、脱神様

 斎藤にとって宇都宮は政治の師であり、一緒に写真を撮ってもらうのも恐れ多い、天上の神のような存在だった。じつは83年の参議院選挙のとき、斎藤は宇都宮から500万円をもらっている。選挙がらみで金をもらったのは、後にも先にもこのときだけ。「この人からなら、もらうてもいいやと思えた」からだ。
 ひたむきさとストイック。斎藤の性格を表現しようとすると、この二つが浮かぶ。窮屈な性格であることに斎藤自身も気付いている。彼は40歳のときに、自己犠牲的な生き方を変えようと決心した。
それまでは温泉旅行にさえ罪悪感を覚えたが、たまたま学童保育の父母会に参加して覚えたスキーが楽しかった。それからは、毎年ゲレンデ通いだ。
 「遊ばず、自分にも厳しい時代、斎藤さんは誰も文句を言えない存在になってしまった。それでは、自発的なものは育っていかない。いまは開放的になった」と言うのは、斎藤と四半世紀の付き合いになる木村芳正だ。
 北海道大学工学部に在籍中、ノンセクト運動の組織を探して全国を歩き回っていた斎藤と知り合った。いまは会社経営の傍ら市民の党のスタッフとして選挙に参加している。坂東事務所で山尾事務局長に「給料もらってたら、8時には帰るよ」と言ってのけた人物だ。
 その木村が、斎藤と付き合う心得を教えてくれた。「斎藤まさしは遠きに在りて思うもの」。その心は、「彼にそのつもりはないけれど、結果として、興味をもって近づいていった相手のほうが勝手に振り回される。自分のキャパを超えたときに耐えられなくなって、やめていくパターンが多かった。だから、遠くに置いておくのがいい」。
 その木村も、斎藤から選挙区の下調べのために車の運転を頼まれると、文句を言いつつ休日返上で付き合っている。やはり、何かをせずにはいられないのだ。
 総選挙が迫る。斎藤は政権交代の可能性を探って新潟県など各地の選挙区を飛び回っている。衆議院解散のニュースは沖縄県で聞いた。だが、いまの日本の政治を変えるには「永田町の外から」と考えている。
選挙の結果、かりに自民党が下野して民主党が政権に就いても、あるいは政党の再編が起きても、議員が特定の政党、団体から支援を受けているうちは、市民の望む政治にはならないと思うからだ。
 斎藤は神様ではない。ボランティア選挙を愚直に伝えているだけだ。伝道を英語ではミッションというが、NPO活動では「社会的使命」の意味で使われる。
いま、市民による新党づくりを視野に入れて、改革派といわれる首長だちとの連携を模索中だ。斎藤の新たなミッションが始まろうとしている。  (文中敬称略)

■さいとう・まさし
1951年:島根県邇摩郡五十猛村(現・大田市)に生まれる。
1969年:県立大田高校3年、60年安保世代の担任の西垣隆に影響を受けて哲学に没頭。
1970年:上智大学外国語学部ロシア語学科入学。
1971年:学生訪中団に参加。帰国後、学費値上げ反対の1人デモ。
1972年:学費値上げ反対ストで除籍処分。
1977年:大学同窓の女性と再会、結婚(2000年に離婚)。
1979年:ミニコミ紙「新生」を創刊。
1980年:衆参同日選挙で宇都宮徳馬、菅直人が当選。
1983年:MPD・平和と民主運動を結成、事務局長(のちに代表)。
1988年:市民の党を結成、代表に。
1998~2002年:参議院選で中村敦夫、広島市長選で秋葉忠利(首長初勝利)、衆議院補選で川田悦子、千葉県知事選で堂本暁子、横浜市長選で中田宏、参議院補選で黒岩宇洋、新潟市長選で篠田昭を応援し、それぞれ当選。
2003年:『無党派を超えて(仮題)』を宝島社より出版予定。


最後の宝島社から出るはずだっ書籍は結局、出版されなかったようだ。


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続いて、また少し長くなるが週刊エコノミストの記事を紹介する。

<タイトル>
≪知られざる無党派選挙の神様 斎藤まさし「市民の党」代表≫

「斎藤まさし」は本名ではない

「無党派選挙の神様」とあがめる人から、「左翼上がりの選挙屋」となじる人まで、これほど毀誉褒貶の激しい人もいないであろう。
 それでも21世紀の大きな潮流となってきた無党派選挙の多くに彼が参謀としてかかわってきたことは確かだ。ここ4年間の選挙で現地入りして勝たせた候補は100人を超えたという。
 例えば2001年3月の千葉県知事選。ボランティアとカンパによる選挙で、保守王国千葉に堂本暁子知事を誕生させた。翌年4月には自民党の牙城である新潟の参院補選で、自民党候補を相手に当時35歳の黒岩宇洋(民主、自由、社民、無所属の会の4野党推薦)を勝たせ、小泉政権に国政選挙初の黒星を与えた。また、同11月には新潟市長選で自民、公明推薦の前助役を相手に、元新聞記者の篠田昭氏を勝たせ、「常識を覆した選挙」と世間を驚かせた。
 そのたびマスコミは書き立てた。「またも無党派の勝利」「風が吹いた」と。
しかし仕掛け人、斎藤まさしに焦点を当てた報道はほとんど見られない。だからだろう、その素顔は驚くほど知られていない。そもそも「斎藤まさし」という名前からして実はペンネームなのである。

連戦連勝

 「無党派選挙のプロ」とも呼ばれる斎藤の戦術は、変幻自在である。
 千葉県知事選では、公選ハガキをフル活用する「ハガキセット」作戦を選んだ。公選ハガキは通常、選挙陣営が所有する支持者名簿を元に、支持者に宛てて送られることが多い。しかし、斎藤の戦術は違った。
 公選ハガキをなんと街頭でばらまいたのだ。3~5枚ずつ1セットにし、「もし堂本を応援してくれるなら、紹介してくれる友人の住所と名前を宛て先と宛て名の欄に書き込み、選挙事務所に返送してほしい」旨の説明書を添えた。これを見た他陣営はせせら笑ったものだ。「名簿がないからあんなことをやってる。今さら間に合うものか」と。事実、既成政党の応援を受けなかった堂本陣営には、名簿はほとんどなかった。
 しかし作戦の目的は実はほかにあった。斎藤は種明かしをする。「ハガキに友人の名前を記入し、選挙事務所に送ってくれるような人は、間違いなく堂本さんの固い支持者になってくれますから。僕らは返送されたハガキを元に、片っ端からその人たちに電話を入れ、選挙応援の勝手連を立ち上げてくれるよう頼んだん
です。実はハガキセット作戦は、政治意識の高い無党派市民を最も効率よくネットワークする戦術だったのです」
 事実、ハガキを頼りにかけた電話は、すこぶる反応が良かった。次々に勝手連が生まれた。選挙事務所に集まったハガキの数は最終的に約13万人分にも上ったのである。
 千葉県知事選とまったく違う戦術を取ったのが、02年3月の横浜市長選だった。相手は4選を目指す現職市長。斎藤は候補者が決まらぬうちから、「市長の4選反対」の世論を盛り上げようと考えた。「候補者不在のまま政治意識の高い無党派市民をネットワークする方法はないか」。そこで思いついたのが「ピンポン玉投票+署名」である。
 02年1月、横浜市内の駅前で「市長4選にYES or NOピンポン玉投票」が始まった。市民グループが道行く人々に「あなたは市長4選に賛成ですか?」と呼びかけ、賛成ならYESと書いた水槽に白いピンポン玉を、反対ならNOと書いた水槽にオレンジ色のピンポン玉を、それぞれ投じてもらう。投票箱に透明の水槽を使ったのは、4選反対のオレンジ色の玉がいかに多いかを道行く人々にも分かってもらうためだった。
しばらくすると、これにジャーナリストの嶌信彦擁立を求める署名運動が加わった。「候補者が決まってないことを逆手に取った。擁立署名なら事前運動に当たらない」と斎藤は語る。
 約2ヵ月間で2万人以上が「4選反対」に投じた。一方、賛成票は2000に満たなかった。嶌の擁立賛同署名は街頭だけで1万人を超え、110を超える勝手連が生まれ、総数4万~5万人分もの擁立署名が集まったのである。嶌が最後まで立候補を固辞したため、運動は空中分解したが、それでも運動を担った人々の一部が中田宏(現横浜市長)の選挙運動に合流していったのだった。
 4月の参院新潟選挙区補選では、「サッカー」がイメージ戦略の決め手となった。折しもW杯サッカーを前に、新潟は開催都市として前代未聞のサッカー熱の渦中にあったのだ。斎藤は候補の黒岩に地元J2チームのユニフォームを着せ、試合のたびに辻立ちさせた。対する自民党陣営がイメージ戦略に選んだのは野球。公認候補名の「一郎」を「イチロー」とカタカナ表記で登録し、大リーグのマリナーズのユニフォームを着せた。まさにサッカー vs 野球の対決である。「勝ったな」と思いました。新潟市で『W杯』相手に『大リーグ』をぶつけても負けるに決まってる」。結果は、黒岩の20万票差の圧勝であった。
 斎藤はこの選挙の結果から、興味深い結論を導き出している。
「自治体ごとの得票数を分析すると、都市部より山間部の方が選挙ボランティア1人当たりの得票数が多かった。都市部ではボランティアー人で100票などまとめられません。でも田舎では100票以上を集めてしまう。人間関係が濃いからでしょう。
僕の『ボランティアとカンパの選挙戦術』は都市部にしか通用しないと思ってきましたが、実は田舎の方が有効だったんです」
 斎藤の携帯電話には今、全国の町村議選レベルの選挙陣営からも「勝たせてくれ」「市民派選挙のノウハウを教えてくれ」と頻繁に連絡が入る。斎藤を選挙に駆り立てるのは、いったい何なのか。

キャンパスで始めた一人デモ

斎藤は1951年、島根県の一地方都市、太田市に生まれた。上智大に入学したのは70年。全共闘運動が先鋭化し、赤軍派が「よど号」をハイジャックした年であり、三島由紀夫の割腹自殺の年でもある。
 「大学の学生運動にはついていけませんでした。何かというと全部『粉砕』。すでに学生の中で浮いた存在でした。これじゃ勝てない、とまずそう思った」
 学生運動に参加できなかった理由がもう一つあった。郷里の両親から「学生運動なんかやったら勘当だ」と釘を剌されていた。小学校しか出ていない両親が「せめて息子だけは」と大学に行かせてくれたのである。親の気持ちを思うと、とてもヘルメットをかぶる気になれなかったのだ。だからといってノンポリを標榜できるタイプでもない。何もしなくていいのか。自分は何をするべきなのか。悶々と悩む日々が続いた。
 転機は大学2年の夏に訪れた。学生訪中団に参加し、当時まだ国交のなかった中国を訪問した。
 「香港ではネオンの輝く表通りからほんの一歩路地裏に入ると、そこぱ路上生活者であふれ返っていました。貧富の差には愕然とした。そして次に中国。ネオンはなく、夜は真っ暗です。でもホテルではカギさえいらない。ホテルに忘れた1本のボールペンがちゃんと僕の元に届きました。同世代の中国の若者は貧しくても生き生きと輝いて見えました」
 初めての海外経験は強烈だった。
悩むのはもう終わりだ。とにかく行動しよう――。
 斎藤があえて選んだのが、「一人デモ」だった。全共闘時代に、である。親に合わせる顔がない、と自ら
連絡を絶って始めた。一人で「学費値上げ反対」のプラカードを作り、昼休みの10分間だけ構内を歩いた。
「顔から火が出るほど恥ずかしかった。本当に勇気がいった。これで何も起きなければ僕はそれで終わっていたと思います。でも何日かたった時、僕らは2人になったんです」
 学生寮の友人が加勢してくれたのだ。見知らぬ女子学生まで参加し始め、その数は次第に増えていった。
 「その年、僕は上智大の学生会長選に担ぎ出されました。それまでは全共闘系と民青系が別々に候補を立てては、当局の息のかかった学生会長が選ばれるのが常だったのですが、なぜかその年は、民青も全共闘の奴らも一緒になって僕に投票したんです。そして僕は当選しました」これが、斎藤にとっての初の選挙体験である。
 学費値上げ反対闘争には結局、負けた。あえて全学投票で決議し、ストライキを打ったが、その途端、機動隊を入れられた。手順を踏んでも結局力で負ける。「政治ってもんがあるんだ」と肌で感じたという。
 若き日に味わった勝利と敗北。これらは彼の原点であり、教訓ともなった。「普通の人々が参加する事態
 になれば、党派を標榜する人々もまとまってくれる。まとまれば必ず勝てる。でも最後まで勝ち続けるのは簡単ではない」と。
 斎藤が次に選挙にかかわっだのは10年近く後の話だ。アルバイトをしながら市民運動を続けていた時、リベラルな硬骨漢で知られた政治家、
 宇都宮徳馬と出会う。80年、衆参同日選で参院選東京地方区に出馬した。宇都宮の選挙を、知人の紹介で手伝うことになったのだ。「核兵器に殺されるよりも、核兵器に反対して殺される方を、私は選ぶ」の名言を残し、「一匹オオカミ」とも称されたこの一人の政治家との出会いが、彼の後の人生を決定づけた。
「公約を必ず守る政治家がいたんだ、と初めて知りました。政治家や選挙への偏見やあきらめが氷解しました、と斎藤はいう。
 比例代表制が導入された83年、ミニ政党の一つ「MPD(平和と民主運動)」の立ち上げにかかわった。無所属小会派の議員が集えば世の中が変えられる、と信じたからだ。しかし、思ったような新党には育たず、議席は獲得できなかった。96年には「市民の党」を結成し、自ら代表に就任。これまでに東京都や神奈川県などを中心に30人を超える議員を送り出した。今ではミニ政党として定着した感があるが、実はこの「市民の党」は党員登録もなければ党規もない。斎藤によれば「志を同しくする者たちのゆるやかなネットワーク」なのだそうだ。
 斎藤をうさんくさがる人間の多くは、MPD時代にポル・ポトを支援していた点を指摘する。しかし、斎藤は意に介さない。「当時は左翼系の論客の多くがポル・ポトを支持してたんだけどな。それに、ポル・ポト派や中国共産党が僕に資金援助してくれた、なんて噂、本当にありえると思います?」
 では、今の金の出所はどこなのか。斎藤は「『市民の党』の地方議員からの党費と市民からのカンパ。僕の生活費の方はバブル時代に地上げにあった時にできた資産の運用でどうにか捻出してます。各地での選挙応援や講演でも、僕個人は一銭ももらいません」と説明する。
 せめて講演代くらい取ってもいいと思うが、そのあたりも斎藤は慎重だ。「本当は、すごくほしいんですけどね。僕の持論はずっと『人々が自分の時間や金、体力を持ち出し、選挙にかかわらない限り、政治は変わらない』だったから。これで僕が金をもらってしまったら、僕の信用はなくなってしまうでしょう」

かつては敗北の連続だった

 今でこそ「勝ち」が続き、「選挙の神様」と呼ばれることも増えたが、最近まで選挙は敗北の連続だった。市議選レベルで勝つのが精いっぱい。1議席を争う選挙で勝てるようになったのは、4年前からだという。その理由を、斎藤は「平成不況のお陰」と分析する。
 「既成政党を支えてきた集票マシーンが不況でこぞって崩壊した。業界。団体、企業も、連合も、創価学会も……。一方、政治意識に目覚めた無党派市民は増え、今や有権者の2割くらいの層を形成している。わずか2割だけど投票率40%の選挙であれば、これでも過半数を取れる。この層は今や都市部だけでなく、全国くまなく形成されている。だから、この層がまともな候補を立てれば、全国どこの首長選であっても、既成政党候補を相手に勝つことができる。そんな市民の時代が到来したんです」
 斎藤の最終目標は何なのか。もちろん、「無党派層」ブームの盛り立て役でも、全国各地を選挙参謀として走り回ることでもない。
 「政党政治の場は、無党派はやはり無力なんです。僕はようやく層として形成されてきた政治意識の高い市民たちの全国ネットを作りたい。選挙に主体的にかかわる市民をどんどん育てていけば、いつか市民のための政党ができると信じるから。永田町から政治を変えるのはもう無理です。市民から変えるには、市民のための政党が必要です。政治意識の高い市民たちは、すでに選挙基盤的には自民党や民主党を抑えて第一党になっています。それなのに自分たちの党がまだない。新しい受け皿が必要なのです」
 これこそが斎藤の最終目標である。全国で増え始めた市民派議員をゆるやかにネットワークし、国政に打って出られないか。そこから政治を変えられないか。統一地方選のある今年は、斎藤の勝負の年になる。
 「あなたが選挙に出ればいいのに」と何度か問うたことがある。そのたび、斎藤はこれを笑い飛ばす。「僕が議員になって何かできますか?ワン・オブ・ゼムの議員じゃ、たいしたことはできない。だったら、裏方で議員をたくさん出した方がいい。ただし……」。そして、不敵な顔でこう続けるのだ。
 「もしも首相公選制が導入されて、僕がその時まだ50代だったら……。約束します。その時、僕は絶対に出ますよ」(敬称略)

(週刊エコノミスト2003年2月11日)


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